翻弄 5

あわただしい1日 その4

終礼が終わった。
「バイバ~イ」
「元気でね」
「うん、次にいつ会えるかわからへんけど、それまで元気でいようね」
「帰ったらすぐLINE送るね」
「うん、すぐ返事するね」
「みんなも元気でね~」
「絶対にコロナなんかに負けんとこな」
「おう、負けへんで!」
終礼中の静けさの反動もあるだろうし、大人たちが勝手に決めたことに対する反発もあったのかもしれない。それ以上に生徒たちも生徒たちなりにお互いに励ましたかったのだろう。誰かのために役に立ちたいという気持ち。不安や寂しさを感じている自分自身の心を奮い立たせるため。考えるのではなくただ自分の気持ちに素直に従って。そんな様々な思いを含んだ教室のワンシーンだった。このシーンを忘れたくないと思った担任がいた。二度と見たくないと思った担任がいた。
「うん。絶対に、コロナなんかに負けんとこな。絶対に・・・」
心の中のつぶやきは共通だったかもしれない。

生徒たちが下校する時間、増田は正門に立った。朝、職員室にいたからこそ生徒たちを見送りたかった。生徒指導主事の高橋も、他数人の教師たちも一緒に正門で生徒たちを見送った。様々な思いと現実とのギャップのせいで心の中にたまったモヤモヤを消化するために、とにかく体を動かしたかったのかもしれない。

終礼を終えて職員室に戻ってきた山野に江本が声を掛けた。
「もしかしたら泣いているかもと思ってたんやけどな」
「それは、卒業式の日まで取っておくことに決めました」
江本は笑顔を見せたあと、何も言わなかった。言う必要はないと判断したのだろう。

屋島はかなり遅く職員室に戻ってきた。ベテランで隣の担任の井上が
「屋島先生、遅かったですね。お疲れ様です」
「教室の掃除をしてました」
「おや、おひとりで?」
「はい。生徒はすぐ帰さなくちゃいけなかったので」
「確かに、あわただしい一日でしたからねぇ」
「机も全部雑巾できれいに拭いてきました」
「屋島先生らしいですなぁ。気持ちを切り替える、儀式みたいなものなんでしょうなぁ」
「なるほど、そう言われたら自分の中で区切りをつけるためかもしれません」
「私も美術の作品の整理をしててさっき戻ったところです」
「井上先生もお疲れ様です。実技を伴う教科は、こういう時は大変ですよね」
二人のやり取りを聞きながら、お互いに理解する関係はいいなと森は思った。その輪の中に入りたいけど、自分は誰かの理解者になれているだろうか。そんな素直で前向きで謙虚なところもあるのが森の長所であり魅力だ。

森は昨年度の教員採用試験に合格できなかった。でも学校の先生になることをあきらめきれず、この年は講師になった。学ぼうとする意欲もあり授業の準備や工夫も頑張っている。生徒との関係も良好だ。ただ、まじめに講師として仕事を頑張れば頑張るほど採用試験に向けての勉強の時間が取れなくなる。つまりこの年も合格できなかった。
森はもう1年講師を続けて半年後の採用試験にチャレンジしようと考えている。1年間講師を続けてきてますます教師になりたいという気持ちが強くなったからだ。ただその先はどうするかわからない。このままでいいのかという不安もある。教員採用試験に3回連続で合格できなかったときに、不安と憧れのどちらが強くなっているのだろうか、今の自分にはわからない。
昨年4月からの森を見ていて、周りの教師はなぜ森先生を採用しないのか?もしも大阪府での受験をあきらめて別の自治体に行ったらどうするつもりなのか?などと思っている。学校現場の感覚と採用試験担当者の感覚がずれていると感じて、そのことに不満を持っている教師は多い。今の学校現場が抱えている課題の一つであることは間違いない。

夕方に教育委員会から追加の指示が来た。「休校開始日については、各校で柔軟に対応すること」この指示があと4時間早かったら・・・。もう今からでは指示の変更はできない。
職員室にいてそれを聞いた水嶋は「今さら!」とひとこと言ったきり沈黙した。あまりにも怒りが強すぎて逆に何も言えなかったのだ。他の教師たちもいろんな感情を抱いたが、この一件で校長を責めても仕方がないとわかった部分がある。すべては教育委員会からの指示が遅かったからである。きっと教育委員会も大変なのだろう。突然の全国一斉休校の指示で、こんなにも混乱が生じている。
教育委員会からの指示は校長専用のメールアドレスに届いたはず。つまり教師たちにはわからないのである。しかし校長は隠ぺいすることなく、律儀に教育委員会からの指示を伝達した。そういう人なのである。不器用な人だと受け止めるか、実直な人だと受け止めるか、それとも・・・
ささくれた心を落ち着かせるために、また来週からの休校に備えて、仕事に没頭したいと欲した教師は多い。しかし、今できることはほとんどない。怒りをぶつけることで発散できるときもあるが、今はそのぶつける先がぼやけてしまった。
「それにしても疲れたなぁ」そんな声がどこからか聞こえた。みんなの帰宅は早かった。3月2日の月曜日にまた指示が変わるかもしれない。今から準備をしても無駄になるかもしれないのだから当然だろう。

夫が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい。お疲れ様」
結子はいつもの言葉に「お疲れ様」をつけて出迎えた。
結子は専業主婦。増田との間には子どもが3人いて長男は就職して毎日遅くまで働いている。長女は遠くの大学に通うため大学の近くで下宿。次男は今年高校を卒業して大学に入学する。つまり子育ても終わりつつある。
結子は結婚を機に退職した元幼稚園の先生。だから実際の中学校のことをわかっているわけではない。ただ、前日に安倍総理の記者会見のニュースが流れたときから夫はきっと忙しくなること。それに伴ってストレスもかなり溜まるだろうということは予想できていた。
他の人に仕事を振ることが苦手で、少々のことなら自分でやってしまうタイプ。でもその少々が少々で済まないこともよくある。仕事を最初から受けなければ良さそうなのに、むしろ自ら苦労を背負ってしまう人だから。
今も夫は冷蔵庫に行って自分で缶ビールを出した。そしてテーブルに冷えたビールを置き、予備のビールを取りに行き自分で冷蔵庫に補充した。冷えたビールが少ないことに気がついたのだろう。それからやっとテーブルに座って缶ビールをあけた。結婚して20数年だがビールを出したことも冷蔵庫に冷やしておくことも結子はやったことがない。
増田が疲れて帰ってきたときに「どうしたの?」などと聞いたこともない。言いたくなったら言うだろう、そうしたら話を聞く。一言で表現しにくいが、それがこの夫婦の感覚?態度?関係?である。決して冷めた夫婦関係ではない。

ビールを一口飲んで大きく息を吐いてから会話が始まった。
「月曜から休校に決まった。土日の部活も禁止」
「やっぱり」
「市教委からの指示は中途半端で、いつひっくり返るかわからへんねん。だから明日からの土日、学校には行かへん。やってもムダになるかもしれへんから」
「そう」
土日も学校に行って仕事をするだろうと思い込んでいたので意外だったが、正直安心もした。
「月曜から生徒は休校やけど、先生は出勤するねん。昔あった新型インフルエンザの時みたいに家庭訪問することになるんやろなぁ」
「じゃぁお弁当、用意したらいいんやね」
「うん、お願い」
それだけの短いやり取りの中に、結子は夫の自分への配慮を感じる。必要な情報はきちんと伝える。でも余計な情報は伝えない。心配をかけたくないのだ。それは、すなわち私の心配している気持ちが伝わっているということ。
夫は近所の主婦たちに「あたりの旦那」とひそかに呼ばれている。家事にも子育てにも積極的に参加するから。それもさらりと自然に。「家庭科の授業で生徒に教えることを自分自身が実際にやらないのはおかしいからね」とか以前言っていたな。
子育てが終わりつつあるこのタイミングでよかった。もしも3人の子どもたちが幼稚園や小学生だったら私一人ではきっと支えきれないのではないか と思う。そうすると夫はもっと・・・
テレビのニュースを見ながら、夕食のおかずをつまみにビールを飲む夫の姿を見ながら結子は決心した。
「家のことで心配をかけないようにしよう」
ただ、私がそう考えたことは間違いなく夫は感じ取るだろう。私が夫の考えていることを感じ取るように。
できることならこんな心配をしないですむ世の中に、早くなって欲しいと思う。