翻弄 4

あわただしい1日 その3

また一人の教師の手が上がった。
「卒業式はどうなるのでしょうか?」
そう質問したのは3年2組担任で国語科の山野。教師になって3年目で初任の時から3年間この学年の担任を続けてきて、初めて卒業生を送り出すまであと2週間ほどというタイミングだった。
彼女にはこんなエピソードがある。
憧れの教師になって初めて1年生の担任をしたクラスの3月の修了式の日の学活。通知表などを配り、最後の学級通信を読むまでは耐えていたのだが、終わりのチャイムが鳴って最後の起立の号令がかかったとたん、生徒たちに背を向け黒板の方を向いてうつむいたまま動かなくなった。1年間一緒に過ごした生徒たちとの別れがつらくて涙があふれてしまったのである。
声を出さずにいても生徒たちには担任が泣いていること、そしてそこにつながる思いは伝わる。担任と生徒たちとの濃密な1年間とはそういうものだ。そして山野と同じ思いを持つ生徒たちがすすり泣きを始め、広がり、やがて大号泣する声が教室にあふれることになったのである。
翌4月、担任としてこの学年に所属することに決まった山野は「私、新しいクラスの子どもたちともうまくやっていけるでしょうか」と不安を口にした。学年は3クラスなので単純に考えると3分の2は担任したことがない生徒たちに入れ替わるから不安を感じるのはわかる。でも実際に新しいクラスがスタートするとまた山野はよく笑い、よく泣き、生徒たちと一緒に様々な経験を積み重ねながらさらに成長する1年間をすごした。そして修了式の日には「号泣」した。「大」が取れたのは山野と生徒たちが成長した証かもしれない。
そのまま3年生も担任を続けることに決まったとき山野は学年主任の江本に相談した
「進路の指導をするのは初めてで3年生の担任をできる自信がありません」
「そうか。じゃぁ、他の学年の担任になりますか?」
「・・・」
「それでいいですか?」
「・・いやです!」
「そうだよね。じゃぁこれからいっぱい学んでいくしかないよね」
「・・・そうですね。頑張るしかないですよね」
「誰にでも初めてはあるから。不安になるのはわかる。でも僕らもサポートするよ。それに、清水先生は進路のベテランでその辺もわかってるから安心してええで」
「はい。よろしくお願いします」
それから周りもよく支え、山野自身も頑張るしかないとの言葉通り一生懸命学び、この年も生徒たちと一緒に笑ったり泣いたりを積み重ねて成長し、もうすぐ卒業式というところまで来たのである。

山野の目は潤んでいる。
今まで感情を表に出すことはあっても感情だけで動くことはなかった。江本は、そんな姿をずっと同じ学年で見てきたから、山野先生は子どもたちを守ることが最優先だとわかっている。わかっているからこそ自分の感情との間で苦しんでいる。涙があふれだすその手前で止まっているのはそういうことだ。戸惑いもあるだろうし、サポートが必要だな。でも、今はその時じゃない。それにもう少し自分で考えてもらった方がいいだろう。本人の考えたことを聞いて、サポートするのはそのあと。そう判断した。
江本はいつも冷静で、生徒も教師のこともよく見ている。自分の考えを言う前にまず生徒や教師の考えを聞く姿勢を基本にしている。そんな江本のおかげで山野はのびのびと過ごせたし、確実に成長できた部分もあると思う。
教師の多忙化は事実である。教科が増え、〇〇教育と呼ばれるものがいくつも盛り込まれていった結果である。授業の進め方にも盛り込まれたものがある。子どもたちの個性は大切にするように求められるが、教師の個性はどんどん切り捨てられているのではないかと感じることがある。とにかく余裕がない教師が増えた。時間の面でも、気持ちの面でも。
山野のように十分なサポート得たうえで本人の意思や個性を尊重してもらえる若い教師は、今の日本では段々とレアになっているのかもしれない。いや、しっかりサポートする江本の方がレアなのか。

「卒業式、入学式については、具体的な指示が来るのを待つ状態です」
「それはいつでしょうか」
「わかりません。おそらく来週になってからだと思われます」
もうすぐ5時間目の授業が始まるので、昼の打ち合わせはそこまで。授業がある教師はあわただしく職員室を出ていく。相手は別の学校の校長だろうか。校長はどこかに電話をしている。教頭は各家庭へ配るプリントの用意を始め、授業のない空き時間の教師たちもそれぞれ何らかの仕事を見つけて動いた。何しないでぼーっとすることに耐えられなかったのだろうと思う。

普段であれば6時間目の授業が終わったら清掃の時間があって、その後終礼という流れである。しかし今日は配るものや説明することが多いので清掃を中止して時間の確保をした。
生徒たちはどんな反応をするだろうか。
どの担任にもはっきりとした予想はできなかった。もちろん生徒によって受け止め方には差があるのが当然である。だから意識して冷静に事実を伝えるようにした。来週から休校。土日だけではなく、今日の部活から活動は禁止。休み中の課題のことなど詳しくは後日連絡をします。
担任からそう説明された時の生徒たちの反応は、全体としては落ち着いて受け止めたように思う。いつもなら大騒ぎするような生徒も、口数が減って表情を硬くしているクラスメイトの前でイエーイ!と大喜びするのは違うと感じたのかもしれない。自分では気がついていなくても、不安が心の中に育っていたのかもしれない。
子どもたちは自分が不安やつらさを感じているとき、家族や教師に隠すことがある。自分のことで心配させてしまうことがたまらなくイヤだとか、そういった理由だ。表面上は平気な顔をしていても、心の奥底はわからないことがあるということだ。だから重すぎず軽すぎず、冷静に説明した担任たちの判断は正しいと思う。