翻弄 3
あわただしい1日 その2
8時30分のチャイムが鳴った。
「職朝を始めます。まず校長先生からのお話があります」
「みなさん、報道でご存知だと思いますが、昨夜総理から一斉休校の要請がありました。しかしながら市教委からの指示は現段階では午前中に指示をメールで送るという以外にはありません。そこで昼休みに職員打ち合わせを開いて、具体的な指示はその時に伝達します。本日は6時間目までの予定ですが、その予定のままで進めてください」
やはりまだこの段階では市教委から具体的な指示は届いていない。校長は昼休みに市教委からの指示を伝達して今後のことを確認。家庭への説明プリントを作成して終礼で配る、というつもりだろう。
「何か質問はありますか。」
増田はいつものクセでつい聞いてしまった。教育委員会から何の指示もないのに質問が出るわけがないのに。ふぅと軽く息を吐いて「冷静にならなくちゃ」と自分に言い聞かせ、その日の予定の確認をすませた。
「では各担任は出欠確認の際に今日は6時間目まで予定通りあることと明日以降のことは終礼で連絡することを生徒に伝えてください。校長先生、職員の打ち合わせは午後1時からでよろしいですね?」
「午後1時で。もしその時間で無理な場合は追って連絡します」
「ということですので先生方、1時に職員室にお集まりください」
庄田中の教師の休憩時間は12:35~13:20に設定されている。でも、4時間目の授業が終わるのは12:35である。授業中に休憩時間が始まることになっているのは、おかしな話ではある。
さらに昼休みには昼食の時間がある。当番の生徒に給食室まで取りに行かせ、配膳できるようになったものから配膳を開始する。すべての食器や食材を持ってきたかを確認もしながら、おいしそうに見えるように、清潔さを保ちながら、偏りがなく、全員にいきわたるように、残る量を減らすように、一人一人の食欲や食べられる量に合わせて盛り付ける量を調整していく。このように「配膳する」だけで細かく気を配る必要がある。汁物の肉団子の数が他の生徒に比べて1個少なかったというだけで保護者からのクレームがあり得るなんて、一般社会の人には冗談かと思われるだろう。しかし、事実である。
まだある。アレルギーを持つ生徒にはアレルギー反応を起こす食材を除去した特別な給食が用意されている。その特別な給食がその生徒の元にちゃんと届いているか。毎月教頭と給食担当者と担任が参加するアレルギー対応委員会で翌月の給食の食材の一覧表を見て細かく確認をしているが、チェック漏れがあるかもしれないのでその生徒と一緒に目視で食材の最終チェックもする。さらに周りの生徒とメニューが違うことで嫌な思いをしないかも気配りをする。
中学生なら自分でチェックするぐらいできるだろうと思われるかもしれないが、毎日のことなのでふと気が緩んでミスをすることがある。だから担任は丁寧に確認を繰り返さなければならない。卒業するまでアレルギーの事故を防ぐためこのようなことをするように求められる。
生徒の命がかかっているので副担も一緒に対応することもあるが、昼休みに別室登校の生徒に給食を届けたり一緒に食べるなど副担にも別にやることがあったりする。決しておろそかにはできない大切なじごとである。せめて給食の時間にヘルプしてくれる人を配置してほしいと願うのだが、こんな短時間の勤務のために人を確保するのはいろいろと課題があるので実現するのはあきらめている。
全員に給食が配膳されているか、全員がそろっているかを確認してから「いただきます」で食べ始める。担任もこの時間で食べるのだが、食べながら全員の顔色や食欲の様子などを観察しなければならない。感染症に対して世の中が敏感になっている現状では、やはりおろそかにはできない。
自然と教師が食べるスピードは一般人の予想をはるかに超えるようになる。レストランなどでとんでもないスピードで食べる人を見かけたら、それは医療関係者か保育士か教師の可能性が高いと思っている。
食べ終わった生徒から食器の片付けなどをする。ちゃんと片付けているかも見るし、食べるのに時間がかかる生徒が嫌な思いをしないかもやはり気配りをする。
そこから5時間目の授業が始まるまでの時間が休憩時間ということになる。トイレに行って水分補給をすることになるが、生徒が来て何らかの対応をすることもよくあるし、次の授業の用意も必要なので実質的な休憩時間ではなくなることも多い。労働基準監督署はこの問題に関しては何も言えないそうだ。
だから増田は「職員の打ち合わせは午後1時からでよろしいですね?」と校長に確認をした。貴重な休憩時間なのに今日は休校に関する教育委員会からの指示を聞き、質問とか内容の確認をすることになる。緊急事態で仕方がないこともわかるのだが、その責任は校長にありますよとの意味を込めたのだ。おそらく校長は気にしていないだろうが。
「では学年の打ち合わせを始めてください」
庄田中学では学年の打ち合わせが終わったら担任は教室へ。欠席者がいたら家庭に確認の電話を入れるのは副担が基本。昨日の安倍総理の記者会見を聞いて欠席が多いかもと予想していたが、特にいつもと変わりない。いや、遅刻する生徒が普段よりかなり少ない。休校になるのかどうかが気になって遅刻なんてしていられない。そう考えたのかもしれない。
午前中、大きなトラブルはなかった。生徒たちは、もしかしたら、しばらく会えなくなるのかもしれないと考えているのかもしれない。重くはないが、いつもとは違った雰囲気が校内に漂っている。
午後1時。教室から担任たちが帰ってきて打ち合わせが始まる。大切な打ち合わせだということがなんとなく生徒たちもわかるのだろう。いつものように職員室の前で騒ぐ声も聞こえないし、職員室のドアをノックする生徒もいない。その気持ちの根っこの部分にあるのはどんな感情だろうか。
この打ち合わせも教務主任である増田が司会をするのだが、事前に何も聞かされていない。教育委員会からの指示が届いたころには木工室で授業をしていたのだからそれは仕方がない。だから打ち合わせは直接校長の話から始めてもらった。
「今いらっしゃらない先生には、学年できちんと伝達をお願いします。市教委からの指示を伝えます。3月2日から4月の始業式まで休校します。原則として外出せず家にいるように伝えてください」
静かであった。息を吞むような緊張感もなく、そのまま受け入れている感じ。みんな予想はできていた ということなのだろう。
「本日の放課後から部活も中止して全員帰宅させてください。土日の部活も禁止です。ただし卒業式、入学式、公立高校の入試は実施します」
「はい」増田の「質問はありませんか」という前に水島の手が上がった。
「このあと2時間ほどで休校のための準備をしてすぐ休校に入るということでしょうか?」
「おっしゃる通りです」
「突然過ぎませんか?生徒たちはどうすればいいのか間違いなく戸惑いますよ。今から2時間で課題を用意なんてできないから、明日から自習をしてねってことですか?そんなこと言われても何をすればええんやってなりますやん。外出もするなでしょう?無茶ですやん。不安もかなり大きくなると思います。保護者も今日いきなり月曜から学校は休校ですと伝えられても仕事の段取りとかいろいろあって対応に困る家庭も絶対にありますよ。京都市では3月2日の月曜日まで登校させて、3日から休校にすると聞いています。そうすればまだ準備できることがいっぱいあります。生徒や保護者の不安を減らし、混乱を避けるためにこの学校も来週月曜日まで登校させませんか?」
いわゆる水島の「マシンガントーク」の噂は生徒から聞いたことがある。流れるように一気に説明をすすめるのだと。職員室の何人かは「これがそうか!」と思った。マシンガントークが可能なのは幅広く深い知識の蓄積と目標の正しい理解があるから。水島は大阪中学校体育連盟のある種目の専門部の役員をしているので人脈も広い。きっと昨日から連絡を取って幅広く情報を収集していたのだろう。そして今ここで何を言うべきかがはっきりとわかっているのだろう。
水島の発言を聞いてそんな対応ができるのならその方がいいと思う教師は圧倒的に多かった。しかし校長からの返答は一言であった。
「できません」
職員室で何人もが一斉に息を吐いたような気配を感じた。水島はそれ以上の発言はしなかったが、表情は明らかに怒っている。コロナという未知のウイルスの脅威に立ち向かうために休校することは受け入れている。ただあまりにも急すぎる。この形で休校に入ると生徒たちも、保護者も、教師も困惑するばかりでマイナスの影響が大きい。実際に休校に入る日程を遅らせている自治体があるではないか。
続いて戸山の手が上がった。
「月曜日から我々も休みですか?」
「先生方は出勤してください」
さっきよりは明確にため息とわかる息を吐いた音がした。
「出勤して何をするんですか?」
「会議や生徒への対応があると思います」
その発言を聞いて国崎が発言した。
「ウチには小学1年生と3年生の子どもがいます。この市内の小学校に通っているので休校ですよね?夫もこの市内の教師なので出勤することになりますよね?」
「そうですね」
「私も出勤すると私の子どもたちはどうすればいいんですか?近くに面倒を見てくれる親戚もいないんですよ?」
「申し訳ないですが、そこは何とか工夫をお願いします」
国崎をはじめ、職員室が静かになった。絶句。やはりこの一斉休校は様々な問題点を含んでいる。きっと多くの家庭でも困ることになる。我々にはそのことがよくわかった。そしてよくわかっていない人がこの国の中心にはいるのだと思ってしまう。
翌週から国崎は夫婦で交代して有給休暇をとってどちらかが家にいるようにした。体力的にも精神的にもつらいが仕方ない。もっと幼い子どもを持つ教師は、預かり続けてくれる保育園があって助かった。だが、もしも保育園でクラスターが発生したら、どうすればいいのだろう。誰にも聞けないから、心の中で自分に聞いてみた。「どうすればいいの?」何も答えは出てこなかった。途方に暮れた。
教育委員会からの指示に対して実際にどう対応するかの要点をまとめると次のようなものになる
・1・2年生は先週終わったテストの結果一覧を今日の終礼で配布する
・3年生で公立高校受験のために出願する生徒は、3月4日に登校、そのまま出願へ
・休校に関する各家庭への連絡はこの後プリントを印刷するので終礼で生徒全員に配布する。
・一斉メール送信システムでも同じ内容を送信する
・登校日をどうするか、課題をどうするかなどの詳細は来週決定する。そのため朝9時から会議を開く
要するに何もかもがほぼ未定で決まっているのは休校がこの日の放課後から始まる ということか。こんなことでは昨夜つぶやいた「不安をいっぱい抱えた子どもたちと、不満をいっぱい抱えた先生たちのフォロー」をするなんてまったくできそうもないではないか。