新年のあいさつと可能性の話

あけましておめでとうの意味

 新年を迎えると、「あけましておめでとうございます」とあいさつしますが、一体何がおめでたいのか知っていますか?
 昔は今ほど誕生日について細かく気にしてなくて、自分の正確な誕生日を知っている人はとても少なかったのです。今は誕生日を迎えると年齢がひとつ増えますが、昔は正月を迎えると年齢がひとつ増えるようになっていました。これを「数え年」といいます。つまり、お正月には日本全国でみんな一斉に年をとっていたのです。今でも、長寿のお祝いや占いなどではこの数え年を使う場合があります。
 数え年を使っていた時代には、病気などで亡くなってしまい、お正月を迎えられない子どもがたくさんいました。お正月を迎えて年齢がひとつ増えるということは、1年間生き続けることができたということです。だから正月を迎えることは「おめでたい」ことなのです。お正月を無事に迎えられた子どもが来年もまたお正月を迎えられるようにと、大人たちは新年の神様の力が宿っていると考えていたお餅を子ども達にあげました。それを食べさせることで1年間の無病息災を願ったのです。このお餅が「お年玉」の起源です。「お年玉」の『玉』は『魂』すなわち『命』につながっていました。
 僕は終礼のときに、生徒の誕生日を知らせてきました。誕生日を迎えることはめでたいことです。みんなで祝うのは当然だと思っています。今までの教師生活の中で10人以上の生徒や卒業生に先立たれてきた僕は、生きていること、命が続いていることの大切さをわかっているつもりです。だから、終礼での誕生日のお祝いを続けていくつもりです。

欠礼のはがきと年賀状

 親戚等に不幸があった場合、おめでたくないわけですから年賀状を出しません。その場合、普段年賀状のやりとりをしている人へ、年が明ける前にそのことをお知らせする必要があります。それが年賀状欠礼のはがきです。僕ぐらいの歳になると仕方がないことかもしれませんが、毎年、年賀状欠礼のはがきが届きます。
 年が明けて正月には年賀状が届きました。昔の教え子からのものも含まれています。その中に今年、子どもが産まれますとか、昨年子どもが産まれましたというものもありました。考えてみれば昨年の終わりのころに産まれた子どもは1年ほど前には影も形もなかったかもしれないわけで、年賀状を見ながら命の不思議さなどについて何とも言えないものを感じました。結婚しましたという年賀状もあったので、そのうち、また新しい命の誕生の知らせが届くかもしれません。みんな少しでも幸せに、そしてその期間ができるだけ長くなってもらいたいと願うばかりです。

人が持つ無限の可能性

 生きていることがなぜすばらしいのか。答えはいくつかあると思いますが、そのうちのひとつ、『人間には無限の可能性があるから』という答えが僕は好きです。人間は周囲の人たちとつながって影響を与えたり与えられたりします。ある人の可能性が周囲の人に影響して、新たな可能性を創り出すこともよくあります。ただ単に可能性があるというだけではなく、いろんな可能性や偶然といったものが複雑にどんどん絡み合っていくことで、将来、可能性がどこまで広がっていくのかわからない。そういうところが好きなのです。
 10何年か前の話ですが、昔担任していた生徒を偶然新聞記事で見つけました。大学を卒業してから外国へ行き、現地の子どもたちに柔道を教えているという内容でした。勉強が大嫌いだった彼が大学を出て、外国で暮らしていたことにとても驚きました。中学生の時のイメージとずいぶん変わったのは、進んだ高校での新しい友だちや先生との出会いが影響したのかもしれません。ついでに書くと、その生徒は公立を落ちて私立高校に進学したんです。人間は何が影響して、どこまで可能性が広がるのかわからないという実例ですね。10年後や20年後、このクラスのみんなはどうなっているでしょうか。なんだかワクワクします。
 そんな無限の可能性をつぶす行為をする人たちがいます。いじめも差別もそんな行為のひとつです。人の持っている可能性を否定するという、そのことだけで僕は許すことができません。みんなも、いじめや差別をしないことはもちろん、いじめや差別を許さない。そんな生き方を目指して欲しいと思います。そのためにも、まず自分自身と自分の周りの人たちの可能性を大切にしてください。