ヤカン と おばあちゃんの涙

広島の慰霊碑めぐり

 僕が先生になって最初に勤務することになった中学校は平和学習に力を入れていて、8月6日には朝早く全校生徒が登校して広島の平和記念式典の放送に合わせて原爆が爆発した時刻に黙祷をし、その後学年ごとにビデオを見たり核兵器を持っている国の大使館に手紙を書いたりということをしていました。また、先生自身も広島についてしっかりと学ぶべきだということで、毎年数人の先生が広島に行くという取り組みもしていました。
 僕も30年ほど前になりますが一度参加しました。一日目は原爆資料館の見学と被爆者の方からあの日に体験した話を聞かせていただきましたが、今では貴重な体験だったと思います。二日目は8月6日には記念式典があって被爆者の方はそちらに参加するからということで、8月6日の前の日曜日にバスも利用して慰霊碑をめぐるツアーがありまして、それに参加しました。参加費は無料だったので、バスの中は結構人がぎっしりと詰まっていました。
 朝8時に原爆資料館の前に集合してバスは出発しましたが、原爆で犠牲になった方々の慰霊碑はそこら中にあって、バスは少し走っては止まりを繰り返し、夕方までかかって43ヵ所の慰霊碑を回りました。それでもすべての慰霊碑のおよそ三分の一しかまわっていないと聞いて、原爆という兵器の恐ろしさを思い知らされました。

おばあちゃんの涙

 そのバスツアーに小柄なおばあちゃんが一人で参加していたんですが、そのおばあちゃんは身体の大きさにとても不釣り合いな特大のヤカンを二つ持っていました。世の中にこんなに大きなヤカンがあるんだと思えるほど大きなそのヤカンに水をたっぷりと入れて、バスが止まるたびにそのすっごく重いヤカンをもってバスを降り、慰霊碑に水をかけているんです。「ごめんなさい。ごめんなさい。」と何度もあやまりながら。
 途中、水を補給できるところがあると、軽くなったヤカンにまたたっぷりと水を入れて次に向かうのです。思わず「持ちましょうか」と声をかけたのですが、「ありがとうございます。でも、これは私が持たなくてはいけないんです」と言って断られました。でも、その一言がきっかけで僕はそのおばあちゃんと少し話をすることができました。
 原爆が落とされたころ、おばあちゃんの家は爆心地から少し離れた所にあったそうです。そして、たまたまその日、用事があって一人で爆心地とは逆の方向に出かけていて熱線や爆風の直接の被害にはあわなかったそうです。しかし、家族はどうなったかわかりません。心配で家の方向に向けて歩き出したそうなんですが、途中やけどをした人やケガをした人たちといっぱいすれ違ったそうです。被害のなかった所まで避難しようとする人たちでした。
 そんな人たちを見てますます不安になったおばあちゃんが急いで歩いていくと、やがてひどいやけどをしたり、大ケガをしたりして動けない人たちがいっぱい倒れているところまでたどり着きました。中にはもう亡くなっているのか動かない人もいましたが、おばちゃんの姿を見ると「水をください」と頼む人もたくさんいたんだそうです。でも、おばあちゃんは飲ませる水を持っていなかったし、周りを見てもがれきの山となっているから水はないし、なによりも自分の家族のことが心配でそのまま先へ進んだんだそうです。
 でも、あとで、水を見つけようともしなかったことがとても辛くて、その場を立ち去った自分自身を許せなくて、そこで毎年慰霊碑に水をかけ続けているんだそうです。犠牲者の名前が刻まれたある慰霊碑の、そのたくさんならんだ名前を指で優しくなでながら「この中の誰かを、私は見捨てたのかも。」とつぶやき、おばあちゃんは涙を流しました。おばあちゃんにとっては、まだ戦争は終わっていなかったんです。

平和レポート(新聞)の意味

 ◇◇中学では夏休みの宿題として平和レポート(新聞)を作るようにしています。戦争のことを調べたら、死者が何人だったとかそういったデータがわかります。そういったことを平和レポート(新聞)にまとめてもらい、それを文化祭の時に展示してみんなに見てもらえるようにしていました。でも、それだけで終わってはいけないと僕は思います。
 そのデータの意味をよく考えてほしいのです。「死者何人」という数字に何が隠れているのか。そして、その意味を『心』で感じ取ってほしいのです。
 今日、平和レポート(新聞)を返却しました。自分の書いた作品をもう一度よく見てください。そこから何かを感じてもらえたら、この取り組みは成功だと思います。